pl nd 今行ける能登 能登国一之宮 令和6年6月28日曇 #気多大社 #令和6年能登半島地震 #mavic3cine #千里浜なぎさドライブウェイ #国指定重要文化財 #羽咋市 #天然記念物

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古来より能登は、渤海(ぼっかい)等を中心とする対外関係、東北経営の面において極めて重要な地域であった。そのため能登半島の要衝(ようしょう)に鎮座する氣多の大神は、海上防備を護(まも)る要(かなめ)として、朝廷から厚く尊崇(そんすう)された。称徳天皇神護景雲(じんごけいうん)二年(七六八)に封戸(ふこ)二十戸と田二町を寄進され、しばしば奉幣(ほうへい)を受けた(『続日本紀』)。また、桓武天皇延暦三年(七八四)に従三位から正三位(『続日本紀』)、仁明天皇承和元年(八三四)に正三位勲一等(『続日本後紀』)、清和天皇貞観(じょうがん)元年(八五九)には従一位勲一等、醍醐天皇寛平九年(八九六)には正一位の神階(しんかい)を賜った(『日本三代実録』)。
氣多大社は、氣太神宮(『万葉集』)、氣太神(『続日本紀』)、氣多大神宮(『続日本後紀』)のほか、氣多大神、一宮大神、能登大神とも称される。また、一説によると、越前国気比神宮、常陸国鹿島神宮、下総国香取神宮と共に「日本四社」と称せられ、多くの崇敬を集めた。
『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)によると、氣太神社は名神大社(みょうじんたいしゃ)に列せられて祈年の国幣にあずかった。神名帳によれば、「気多」を称する神社が但島、能登、越中、越後(居多神社(こたじんじゃ)と称する)に分布し、加賀にも気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社が鎮座する。このことから、古代から日本海沿岸を中心に、氣多大神の信仰圏が広く分布していたことは明らかであり、その高い神威は今も変わらない。
氣多大社が中央の文献に初めて見えるのは、『万葉集』である。聖武天皇天平二十年(七四八)に越中守大伴家持が氣太の神宮に赴き参詣した折に、海辺にて歌を一首つくり、
 之乎路(しをぢ)から 直超え(ただこえ)来れば 羽咋(はくい)の海 朝凪ぎ(あさな)したり 船楫(かぢ)もがも
と詠んだ。万葉は永遠の意味です。当社の入らず森は永遠の命を伝える森、昭和天皇の御製は現代の万葉集。加賀藩の保護した入らずの森(天然記念物)の奥宮には素戔嗚尊・櫛稲田姫命が鎮座。
昭和五十八年五月、石川県で植樹祭があった。それは二十二日に、津幡町の森林公園で行われた。その日は雨の心配は全くなく、そしてよく晴れてはいても、陽が強すぎることもない。先ずあれ以上の天候はあるまい。まさに最高のものであった。
その行事がとどこおりなくおわったあと、天皇陛下は羽咋市にお向かいになり、氣多大社をお参りになった。そしてその後、三井秀夫宮司の案内で、入らずの森にお踏み入りになり、金沢大学の里見信生氏の御説明をお聞きになった。そこが、神域なるが故に、少しも荒らされることなく、原始のこの方、変わらぬ姿が保たれていることに、深い感銘をお受けになった。
斧入らぬみやしろの森めづらかに
からたちばなの生ふるを見たり
というお歌は、すなわちこの御感動があったればこそのものである。
 陛下は植物に深い関心をお持ちになっているが、決してみだりに採取などあそばさない。それぞれの植物が、平穏に生存をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにお祈りになっているからである。
「斧入らぬみやしろの森」は、そのところのおよろこびなのである。(当社編『天皇陛下行幸記念誌』より)。
順徳天皇建保(けんぽう)五年(一二一七)に将軍源実朝(みなもとのさねとも)が公田(こうでん)として十一町余を寄進したが、これは古代の封戸(ふこ)などによる神領とみられる。中世末期には、九百八十俵と五十六貫余の社領を有していたという。
正親町天皇(おおぎまちてんのう)永禄四年(一五六一)に、能登守護畠山氏が正親町天皇の勅許(ちょっきょ)を得て社殿の造営を進め、同十二年(一五六九)には摂社(せっしゃ)若宮神社(事代主神(ことしろぬしのかみ))(国指定重要文化財)を再建した。この若宮神社は現存し、石川県の重要な中世建造物のひとつである。
天正五年(一五七七)に能登畠山氏が滅ぶと、その後、上杉氏、織田氏、前田氏等の武将たちが能登国を支配したが、その間も気多社への崇敬は絶えることはなく、社領の安堵や寄進がしばしばなされた。
特に前田利家やその後の加賀藩歴代藩主からの崇敬は厚く、社領三百五十石の寄進をはじめ、前田家への祈願、祈祷、しばしば社殿の造営がなされた。
本殿(大己貴神(おおなむちのかみ))、拝殿、神門、摂社白山神社(菊理姫神(くくりひめのかみ))(以上、国指定重要文化財)。神庫、随身門(ずいじんもん)(ともに県指定文化財)がそれである。
明治四年(一八七一)に国幣中社、大正四年(一九七一)には国幣大社に列せられ、現在も北陸道屈指の大社として知られている。
神社の生命は、祭祀(さいし)にある。後水尾天皇元和(げんな)五年(一六一九)の由来書によると、実に七十四度の神秘な祭祀(さいし)を執行(しっこう)していた。しかし、明治の神仏分離政策や新しい神社制度の改変により、修正会(しゅしょうえ)、仏生会(ぶっしょうえ)(花まつり)、放生会(ほうじょうえ)、法華八講などの仏事は執り行われなくなった。しかし、古儀を伝えた特殊神事の多くは、今も継承されており、日々、神職たちは神明に奉仕している。
7月15日まで令和6年能登半島地震を後世に伝えるクラウドファンディング開催中です。全国から能登国一之宮に来ていただき気多大社復興祈願を受けて良い氣を授かり、あなたの名前を国指定重要文化財拝殿に5年間掲げ地震を後世に伝えます。祈願料は五千円です。下記キャンプファイアークラウドファンディングより募ります。
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